BlueCastle

私リフィアが日頃思うことなどを書いているブログです。

波瀾万丈な艦暦

イギリス・ヴィッカース社にて建造された、初の超弩級戦艦となった『金剛』。
この建造には、日本の技術者たちも立会い、その技術やノウハウを学び、後に持ち帰った技術やノウハウ、そして金剛の設計図を元に、国の機関である工廠と民間造船所2社により、3隻の同型艦が建造され始めた。
川崎造船所(川崎重工業神戸造船所)で3番艦『榛名(起工時は霧島)』
三菱造船長崎造船所で4番艦『霧島(起工時は榛名)』

hiei-1.jpg
そして、イギリスから輸入された資材を元に、横須賀海軍工廠で起工・建造されたのが、2番艦である『比叡』である。
この艦名は2代目であり、先代は金剛型コルベットの二番艦である。つまり、金剛とは2代にわたって姉妹艦となり、建造こそ日本で行なわれたものの、使われた資材などはイギリスからの輸入品であることを踏まえると、やはり関係の深い艦名であるという印象を受けます。

戦艦『比叡』(金剛型戦艦二番艦)艦暦
起工:1911(明治44)年11月4日(横須賀海軍工廠)
進水:1912(大正元)年11日21日(横須賀海軍工廠)
大正天皇ご臨席の下で進水し、また軍艦としては初めて、時の天皇に名づけられた艦となり、艦艇類別等級表に即日登録される。登録されたのは比叡のほうが先で、金剛はその1年余りの後、1913年(大正2年)8月16日に登録されている。
1914(大正3)年8月4日 竣工(横須賀海軍工廠),佐世保鎮守府に配属される。
1929(昭和4)年10月15日~1932(昭和7)年12月31日 第一次改装(呉海軍工廠)
ワシントン軍縮条約の影響によって本艦の第一次改装は中止され、代わりに受けたのは4番主砲の撤去や機関変更など、『練習戦艦』への改装であった。改装工事開始が1番遅れていたのが比叡であったことや、軍縮条約の影響により1隻、制限数に引っかかってしまうため、この措置を行なった模様である。
1931(昭和6)年:(改装途中)横須賀鎮守府へ転属。
1933(昭和8)年1月1日:練習戦艦に類別変更された。
1933(昭和8)5月:御召艦用施設を設置(横須賀工廠)
1933(昭和8):横浜沖大演習観艦式で御召艦を務める
1935(昭和10)年:宮崎、鹿児島行幸で御召艦を務める
1936(昭和11)年:神戸沖特別大演習観艦式で御召艦を務める
1936(昭和11)年11月26日~1940(昭和15)年1月末:大改装実施(呉海軍工廠)
この際に、他の姉妹艦が第一次・第二次で受けた改装を一度で受けており、また、大和型戦艦のテスト艦としての側面もあったとされている。136000馬力・速力29.7ノットの高速戦艦となった。
1940(昭和15)年10月11日:紀元二千六百年特別観艦式で先導艦「高雄」及び供奉艦「古鷹、加古」を据え、御召艦を務める。
1941(昭和16)年 太平洋戦争開戦時、「霧島」と共に第3戦隊第2小隊を編成。特徴である速力を生かし、護衛艦として空母に随伴、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦などに参加した。
同年 7月14日 艦隊の再編にともない「比叡」「霧島」は第3戦隊から第11戦隊に編入。
1942(昭和17)年11月13日 第三次ソロモン海戦で戦没。太平洋戦争中に喪失した戦艦となった。
同年 12月20日 比叡の2日後に戦没した霧島と共に除籍。同時に属していた第11戦隊も解隊された。

戦闘に使用されることの無い練習戦艦として、そして最も名誉な任である御召艦の任を何度も務め、その際には切手にも描かれるなど、長門型戦艦および高雄型重巡洋艦と同じくらいに親しまれるなど、不遇な時代でもあり、華々しい時代をも経験した。そして大改装によって他の姉妹艦と同じ戦闘力を取り戻し、その後は姉妹艦に負けず劣らずの活躍を続けた。そして、その大改装では新たに採用される新技術を搭載するなど、後に登場する大和型戦艦のテスト艦としての役割をも担った。その艦生はまさしく波瀾万丈と言えるだろう。

hiei-2.jpg
hiei-3.jpg
説明書及び部品の数々。
この見慣れた部品構成を見るのも、これで最後になるものと思われる。

hiei-4.jpg
今のところ、金剛型戦艦でしかネームプレート?の部品は見かけておらず、加賀に関しても既に加賀の文字が印字された専用のものだった。そして何より、余るパーツは余る。特に25mm三連装機銃は榛名及び金剛のみ装備で、取り付ける数も限られるものと思うが、そのパーツのランナーであるDは金剛型戦艦各艦のキットで2つずつ。これは他のパーツを重複使用するためなのだろうが、この機銃パーツは大量に余った。
そのほかにも他のパーツの関係で余分は多いのだが…。余るものは余る、余らないものは余らない。

hiei-5.jpg
主砲4基のパーツ。

hiei-7.jpg
主砲4基と12.7cm高角砲6基。使用するのは4基のみ。

hiei-8.jpg
艦橋部品。8.25mm機銃などの細かい部品はそれぞれ取り付け済。

hiei-9.jpg
組みあがり、暫定的に船体へ搭載。

hiei-10.jpg
艦橋やら煙突部分やら…

hiei-12.jpg
艦載機。3機作れという説明書だが、カタパルトにどう3機載せるのだ…。

つづきを表示

スポンサーサイト

PageTop

100年目の竣工日

100年前の今日、1915年4月19日…ある2つの艦船が竣工し、海軍に引き渡された。
川崎重工業神戸造船所で建造されていた、金剛型巡洋戦艦3番艦『榛名』

IMGP0017.jpg
そして三菱造船長崎造船所で建造された、同じく金剛型巡洋戦艦4番艦『霧島』です。

榛名の記事に関しては、http://rifianet.blog94.fc2.com/blog-entry-644.html(2014年9月29日記述『今度は、ずっと、隣に…』)をご参照ください。

戦艦『霧島(金剛型戦艦4番艦)』艦暦
1912(明治47)年3月17日 起工(三菱造船長崎造船所)
この前日、3月16日に、川崎重工業神戸造船所(川崎造船所)にて3番艦が起工します。
元は、こちらの艦船に命名される予定の名称が『榛名』でしたが、16日に川崎で起工した『霧島』と名称交換が行なわれ、川崎造船所で建造されるほうが『榛名』、三菱造船長崎造船所で建造されるほうが『霧島』となりました。
1915(大正4)年4月19日 竣工、佐世保鎮守府に配属
1930(昭和5)年 一次近代化改装を実施
同年 10月15日 神戸沖で実施の特別大演習観艦式にお召し艦として参加。妙高型重巡洋艦4隻を先導艦(足柄)及び供奉艦(妙高・那智・羽黒)に据え、主役を務めた。
同年 11月19日~26日 陸軍特別大演習御統裁の際、岡山県宇野港から神奈川県横須賀港まで天皇御乗艦。
1936(昭和11)年 第2次改装が実施される。136000馬力、29.8ノットの速度を持つ高速戦艦となった。
1941(昭和16)年 太平洋戦争開戦時、「比叡」と共に第3戦隊第2小隊を編成。特徴である速力を生かし、護衛艦として空母に随伴、真珠湾攻撃やセイロン沖海戦などに参加した。
同年 7月14日 艦隊の再編にともない「比叡」「霧島」は第3戦隊から第11戦隊に編入。
1942(昭和17)年11月14日 第三次ソロモン海戦で戦没。太平洋戦争中、日本戦艦の中では唯一、米軍戦艦を相手に砲撃戦を行なった戦艦となった。
同年 12月20日 除籍。同時に属していた第11戦隊も解隊された。

IMGP0019_201504191809485ba.jpg
部品の数々。既に金剛と榛名という、2隻の金剛型戦艦を組んでいた身にとって、半ば見慣れている部品構成である。

IMGP0021_201504191810352d7.jpg
主砲部分。照準を合わせるための機器の部品を取り付けるために穴を開ける指示があるが、明確に位置が分かる。
…金剛および榛名もそうなのだけども(第二砲塔及び第三砲塔 の部品)。

IMGP0023_20150419181017f9b.jpg
主砲。思ったのが、これ砲の部分を水平に保って固定するのが難しいのです…。

IMGP0026_2015041918101180e.jpg
艦橋部分(組み立て前)

IMGP0028_20150419181014eee.jpg
艦橋及び2本の煙突部分。
17日はトラブルもあって製作時間が削れたこと、またキリがいいときであったため、艦橋及び主砲、連装砲及び艦載機の製作で終了した。

つづきを表示

PageTop

プリキュアAS 春のカーニバルを見てきた

DSCF1679.jpg
毎年恒例行事(笑)、プリキュアオールスターズの映画を観に。
2月に映画前売り券を買い…。なかなか見に行く機会が無く、既に4月上旬。
平日ですが、昨日に見に行ってきました。公休というわけではなく、前日に午前中のみで帰ることを就業先に申告した上で、それまでに済ませる業務を全て終わらせた上で、である。
普段より制服のまま(というより作業着ですが)通勤しているため、この日は私服を車に積んでおき、公園の手洗いを借りてそこで着替え…昼食も済ませた上で、ちょうどよい時間帯にあたる上映時間に間に合わせるように映画館へ。

DSCF1680.jpg
おっと、表示されてる。

DSCF1681.jpg
拡大。この場所にプリキュア映画の巨大宣伝、出ているのを見たのが2年ぶりのような気がした。気のせいだろうか。

DSCF1682.jpg
エレベーターの扉も映画宣伝。ドラえもんの映画とディズニー映画。

DSCF1684.jpg
先生、ポスター見えないんですが…。
映画『暗殺教室』の巨大看板の先生。

DSCF1691.jpg
恐らく…というより、ゲームセンターの中にいたであろうピカチュウ。
小さい子が乗れた部分を壁に向け、お客さんを出迎え、そして見送る役に徹していた。

つづきを表示

PageTop

運命の悪戯で誕生した航空母艦

前回の航空母艦赤城の模型工作記(日本最大の航空母艦:http://rifianet.blog94.fc2.com/blog-entry-659.html)でも記述をしたのだが、『ワシントン軍縮会議』により制限が決定された大型主力艦。その中で、当初は一度も就役することも無く標的艦として処分されることが決定していた未成戦艦があった。加賀型戦艦の1番艦『加賀』と、2番艦『土佐』である。
同じように未成戦艦であった天城型巡洋戦艦の2隻は、この軍縮会議にあった条文の1つ『戦艦二隻を航空母艦に改造を許可する』旨に沿って、航空母艦への改造が行なわれていた。
しかし、横須賀海軍工廠において改造が進められていた1番艦『天城』が被災、竜骨が折れるなど損傷のひどさにより修理を断念して廃棄となることが決まった際、代替の艦として、標的艦として横須賀に回航されていた加賀が航空母艦へと改造されることとなった。

IMGP0040_201504070052120c9.jpg
横須賀海軍工廠の手により改造され、1928年(昭和3年)3月31日、航空母艦として『加賀』は竣工した。

航空母艦『加賀』艦暦
1920(大正9)年7月19日 戦艦「加賀」として川崎重工業神戸造船所にて起工。
1921(大正10)年11月17日 進水。
1922(大正11)年2月5日に建造中止の通達…廃棄処分が決定される。
1923(大正12)年12月 横須賀海軍工廠で空母への改造着工。
1928(昭和3)年3月31日 三段式甲板などを備えた航空母艦として竣工。
1933(昭和8)年10月20日 予備艦に編入。近代的な空母となるべく改装工事が開始。
1935(昭和11)年11月15日 改装工事終了。即日、現役復帰。第二艦隊第二航空戦隊に編入。
1942(昭和17)年6月5日 ミッドウェー海戦で大破、沈没。
1942(昭和17)年 8月10日 除籍。

ちなみに2番艦『土佐』は三菱造船長崎造船所にて建造が進められていたが、進水後に建造中止とされ、未成のまま軍に引き渡された。1924年(大正13年)6月から数ヵ月間を標的艦として数多の実験に使用された後、1925年(大正14年)2月9日に、高知県沖の島沖にて自沈処分された。
天城が関東大震災の影響を受けずに改造が行なわれていたとすれば、加賀は日の目を見ることなく標的艦として実験に供されて解体される計画とされていたため、まさしく運命の悪戯ともいうべき運命であろうか…。

IMGP0042_20150407005215bbf.jpg
部品の数々。赤城と比べて部品数は少ない?箱もさほど大きなものではないため、組み立て中の本体を保管する際には、先に完成していた赤城の箱を使用し、本来の加賀の箱はそのまま部品を入れるのに使用した。

IMGP0043_20150407005217c3e.jpg
船体部分。本来、船体と船底部分は最後に接着するように説明書に記述があるのだが、保管する際に安定性を要することから最後の工程を最初に施工した。

IMGP0045.jpg
艦載船搭載の甲板、艦橋、45口径12cm連装高角砲6基、煙突部分など。

IMGP0047.jpg
連装砲設置部分などの取り付け。

IMGP0046.jpg
艦首より。上部構造物を除けば、戦艦の面影があるように見える。

IMGP0048.jpg
4月4日で組んだ部分(船体)
赤城が部品バラ、順番どおりに部品を組む難しい構造になっていたのに対し、加賀の模型は一体化したものである。

IMGP0049.jpg
4月4日で組んだ部分(部品)

つづきを表示

PageTop

日本海軍最大の航空母艦

時は1921(大正10)年、建艦競争状態であった各国海軍。
その中で、大型主力艦建造の制限を『ワシントン軍縮会議』により決定された。この際に日本海軍では、長門型戦艦2番艦『陸奥』、加賀型戦艦1番艦『加賀』、2番艦『土佐』、そして天城型巡洋戦艦1番艦『天城』、2番艦『赤城』が建造されていた。
日本海軍の必死の工作により、陸奥は同年10月24日に就役したが、後の4隻は建造中止となった。
そして、この条約の中には『戦艦2隻を航空母艦に改造することを許可する』旨があり、天城型戦艦の2隻が航空母艦へと改造されることとなった。
しかし、関東大震災により横須賀で改造中であった天城が修復不可能な損傷を受けて廃棄されてしまい、予定通りに就役したのは、呉海軍工廠にて改造が行なわれた2番艦のみであった。

IMGP0003_20150402002428c37.jpg
それが航空母艦『赤城』である。
1927(昭和2年)3月25日に竣工・就役した。

当初は三段式甲板を備えた形の空母として改造され、試行錯誤を繰り返しながら運用されていたが、同時に離発着が不可能に近いことなどの理由により、1935(昭和10)年の改造の際に、最上段甲板のみで離発着を行い、下2段は格納庫化。近代的な空母となった。
その後は第一航空戦隊(一航戦)として運用の後、機動部隊(第一航空艦隊)旗艦となった。太平洋戦争開戦初期、この赤城を旗艦とした機動部隊(南雲機動部隊)は世界最強の艦隊といわれるほどの戦力を誇っていた。
1941(昭和16)年12月8日、赤城を旗艦とした機動部隊により真珠湾攻撃が行なわれて太平洋戦争勃発。このときより、退艦巨砲主義と言われる戦艦が主力といわれていた時代は去り、航空戦力が主力となる戦いへと移っていった。
しかし、『世界最強の艦隊』その栄光は長く続かなかった。
1942(昭和17)年6月5日のミッドウェー海戦で、主力空母であった赤城、加賀、飛龍、蒼龍を失う結果となってしまい、まさしく、日本海軍にとって、終わりの始まりとも言える出来事であろう。
ミッドウェー海戦で大破・航行不可能となってしまった赤城は、1942(昭和17)年6月6日午前2時、味方駆逐艦によって雷撃処分されて海へと没し、その生涯を終えた。戦艦として建造された後、空母に生まれ変わり、世界最強の艦隊の旗艦という栄誉をも担った、実に華々しくも波瀾万丈な艦生と言えるだろう。
1927(昭和2)年3月25日:竣工・就役
1935(昭和10)年:大規模改造により、近代的空母に生まれ変わる。
1942(昭和17)年6月6日:ミッドウェー海戦で戦没。
1942(昭和17)年9月25日:除籍。

IMGP0005_20150402002427769.jpg
部品の多さ。
組み立ての最中、未完成状態の赤城を保管するために箱を利用するため、昨年に組み立てた航空戦艦伊勢の箱を流用して部品を入れていた。

つづきを表示

PageTop